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チーム名の由来

「 Antelope」は長野の県獣「カモシカ」の英語表記です。
アンテロープはギリシャ語の「花(アントス)」と「瞳(オープス)」を語源とし、花のような瞳をもつカモシカのことを指します。
また、過去にはアフリカを飛び立つ飛行機に「ANTELOPE」と記さており、夢を託して飛び立つ希望のシンボルでした。
澄んだ瞳で先を見つめ、地域住民、サポーターの夢とともに挑戦し続けるチームであることの誓いを込めています。

チームエンブレム

エンブレムは、チームカラーの赤が映える重厚感のある紺をバックに、チーム名となった長野の県獣カモシカが飛び立つようなイメージと、戦いに向かう選手とを融合させ、夢と希望に向かって常に前進し続けるチームスピリットを象徴しています。

チーム概要

チーム名:アンテロープ塩尻

英文呼称: Antelope Shiojiri

チーム登録年: 1995年

所在地:〒 399-0713 長野県塩尻市大小屋105-24

活動資金:

ホームタウン:長野県塩尻市

ホームスタジアム:アルウィン

練習グランド:塩尻中学校

ホームページ: http://www.fcantelope.com/

 

チーム沿革

 

チーム誕生

1955年(昭和30年)、長野県の教員サッカークラブとして誕生。
北信越サッカーリーグ(現、北信越フットボールリーグ)に昭和52年(第3回大会)から3年間在籍。
第3回大会の通算成績は4勝1分4敗で4位(10チーム)、第4回大会の通算成績は4勝0分5敗で7位(10チーム)、第5回大会の通算成績は2勝2分5敗の9位(10チーム)となり、県リーグに降格した。
その後、県リーグで活動を継続していた。


1995〜2003

時代の流れを受け、「 FCアンテロープ」誕生。
監督は中澤真明氏が務め、県リーグをダントツの強さで勝ち抜くも、チャレンジリーグで勝ち上がれず、北信越サッカーリーグへの昇格は果たせなかった。


2004

北信越サッカーリーグが北信越フットボールリーグと改称し、また 2部制への移行に伴い、県リーグから北信越フットボールリーグ2部に昇格を果たす。
監督は引き続き中澤真明氏が務めた。
第30回北信越フットボールリーグ通算成績:9勝0分4敗(1試合中止)、勝点27で2位となり入れ替え戦で勝利し、北信越フットボールリーグ1部へ昇格を決めた


2005

北信越フットボールリーグ 1部昇格を期に、チーム名を「FCアンテロープ塩尻」と改名した。
また、新監督に徳竹秀彦氏を迎えたが、レベルの高い相手に苦戦を強いられ、通算成績:1勝1分12敗、勝点5、リーグ8位で自動降格となってしまった。
しかし、第10回長野県サッカー選手権大会にて初優勝し、第85回天皇杯に出場を果たす。
1回戦で関西の強豪バンディオンセ神戸と対戦したが0-1で破れた。


2006

北信越フットボールリーグ゙ 2部に降格し、新監督に奥田真央氏を迎え、1部再昇格を目指した。
経験豊富な選手を多数揃え、フォーメーションも機動性を重視した3-5-2で戦ったが、リーグ通算成績:5勝3分6敗、勝点18、リーグ5位でシーズンを終了した。
全社県大会、県選手権大会とともに目立った戦績を残せなかった。


2007

2006シーズンに引き続き奥田真央監督の下、2部優勝、1部昇格を目指した。
選手の若返りを図りつつ、経験豊富な選手で中央を固め、フォーメーションを4-4-2としてパスサッカーの完成に努めたが、決定力のなさが最後まで響き、通算成績:6勝5分3敗、勝点23、リーグ4位でシーズンを終了した。
また、2006シーズン同様に全社県大会、県選手権大会ともに目立った戦績を残せなかった。


2008

2007シーズンに引き続き奥田真央監督の下、2部優勝、1部昇格を目指した。
チームスローガンは『初心』とし、また、主将に桑原健吾選手を起用し、チームの団結に力を注いだ。
パスサッカーが浸透し始めたが、引いて守る相手を崩しきれなかったり、相手の時間帯でボールを繋げず単調な攻撃に終始してしまったり、チームとしての未熟さが最終順位となって現れた。
リーグ成績: 7勝3分4敗、勝点24の4位でシーズンを終了した。
また、 2006シーズン、2007シーズン同様に全社県大会、県選手権大会ともに目立った戦績を残せなかった。


2009

2008シーズンに続き奥田真央監督、桑原健吾主将の体制の下、ポゼッションサッカーの完成と2部優勝、1部昇格を目指した。
チームスローガンは『EXCEED!』(乗り越えろ)。
リーグ戦開幕から、チームは団結し好調をキープした。
第6節終了時点で首位に浮上したが、第7節から苦手とする新潟の地で2連敗を喫し、その後も勝ちきれない試合が続いたため、優勝はもちろん1部昇格の望みすら消えかかっていた。
昇格圏外の3位で迎えた最終戦、大差での勝利が必要な状況で、プレッシャーをはねのけ奇跡の快勝。他会場の結果次第であったが、リーグ成績:9勝5敗、勝点27の2位となり1部昇格条件をクリアした。
全社県予選、県選手権大会はともに目標のベスト4進出。敗れはしたものの、松本山雅FCを最後まで追い詰めるなど、アンテのポゼッションサッカーが強烈に印象付けられたシーズンとなった。


2010

5年ぶりの1部リーグとなった2010シーズン。5年目を迎えた奥田真央監督の下、中村嘉和、森田卓、福田宏幸、古田智之の4選手を主将に置く体制で1部での戦いに挑んだ。
チームスローガンは『覚悟 Making the DECADE』とし、1部残留を最大目標に、10年先を見据えたアンテスタイルの確立を目指した。
リーグ戦では開幕から苦戦を強いられたものの、選手の成長幅はやはり2部リーグのそれとは違った。結果的に経験不足は否めず、理想とするサッカーに固執するあまり、チームを作りきれずにシーズンに入ってしまったことは、最後に大きな代償となってしまった。
シーズン中盤から、ポゼッションや運動量で相手を上回り、試合を支配する場面も多くなったが、シーズンを通して決定力不足が大きく響いた。リーグ成績:2勝3分9敗、勝点9の8位で2部降格が決定した。
全社県予選、県選手権は2009シーズンに続き、ともに目標であるベスト4進出を果たしたが、納得できる内容ではなかった。


2011

再び2部での戦いとなった2011シーズン。奥田真央監督体制6年目、1年での1部復帰を目指すチームは、上原雄次主将を中心に、森田卓、北澤祐也を副将に置く体制で2部での戦いへと挑んだ。
1年で降格したとはいえ、1部での戦いを経験したチームは力強い戦いを見せ、開幕から順調に勝ち星を伸ばした。昇格の条件となる2位以内をキープした後半戦を迎えた。
後半戦も、優勝を争う富山新庄クラブとの直接対決こそ敗れたものの、以降の5試合を全勝で駆け抜けた。最終的にリーグ成績:11勝3敗、勝点33の2位で見事に1年での1部復帰を決めた。
県内のカップ戦は県選手権こそ早期敗退したが、全社県大会では決勝に進出。延長戦の末惜しくも準優勝となったが、北信越1部のチームを相手に堂々たる戦いを披露した。


2012

1年での1部復帰を果たした2012シーズンは、7年目の奥田真央監督の下、當銀拓也新主将、古田智之、北澤祐也を副将とする、同年代の中堅選手を軸とする体制で始動した。
第2節に早くも初勝利を挙げ、好スタートを切ったかに見えたが、互角の戦いを演じながら連続失点で突き放される試合が続き、前半戦を終わって勝ち点4と降格圏に沈んでいた。
第11節を終えて自力での残留がない7位と危機的状況ではあったが、1部に残留するという強い思いでチーム一丸となって戦い、奇跡的な追い上げをみせる。終盤の3試合で2勝1分の勝ち点7を積み上げ降格圏を脱出。リーグ成績:4勝2分8敗、勝点14の6位でクラブ史上初の1部残留を果たした。
その一方で、全社県大会、県選手権ではともに前年の成績を下回る不本意な結果に終わった。


2013

7年間監督を務めた奥田真央監督がクラブGM就任に伴い退任。須澤知史新監督(選手兼任)が就任した2013シーズン。當銀拓也主将、古田智之、田中侑真を副将の体制でクラブ初の2年連続で1部での戦いに挑んだ。
若き新指揮官の下、チームは開幕から躍動した。第4節でJAPANサッカーカレッジから初勝利を挙げたのを皮切りに3連勝を果たすなど、一時は優勝争いに参戦できるかという位置につけた。
後半戦はやや息切れし思うように勝ち点を積み重ねることはできなかったが、一度も残留争いに巻き込まれることなく2年連続での残留を決めた。結局、リーグ成績:5勝2分7敗、勝点17、クラブ史上最高成績となる4位で上位入りを果たした。
全社県大会、県選手権では前年同様大きな戦果を上げることが出来なかった。


2014

2年目を迎えた須澤監督、當銀拓也主将体制の下、前年を上回る成績を目指した2014シーズン。リーグ40周年記念試合となったアルティスタ東御との開幕戦を劇的な逆転勝ちで制し、チームは勢いに乗るかに見えた。しかし、そこから7試合勝ち星から見放され、残留も危ぶまれる状況に陥った。
苦しい戦いが続いたが、第9節でヴァリエンテ富山に勝利すると、続く坂井フェニックスにも連勝し降格圏を脱出。そこから順位を落とすことなく、3シーズン連続の1部残留と最低限の結果は残した。最終成績は3勝2分9敗、勝ち点11の6位だった。
カップ戦では、県選手権こそ結果を残せなかったものの、全社県大会で悲願の初優勝を達成。クラブに9年ぶりのタイトルをもたらした。続く北信越大会では1勝を挙げ、全国大会出場まであと一歩と迫ったが、惜しくも届かなかった。


2015

須澤監督体制3年目の2015シーズン。新主将に古田智之が就任し、6人の新戦力を加え優勝を争えるチームとなるべくリーグ戦に挑んだ。
4シーズン1部で戦い続けた経験はチームに着実に蓄積され、シーズンを通して大きな連敗をすることなく粘り強く戦い抜いた。最終成績は順位こそ5位だったが、勝利数、勝ち点、で1部リーグでの最高成績をマークした(6勝1分7敗。勝ち点19)。
またカップ戦においても県選手権では北信越1部のライバルチームに屈したものの、全社県大会では見事2連覇を達成。残念ながら、悲願の全国大会出場は次年度へ持ち越しとなった。


2016

5年連続での1部での戦いとなった2016シーズン。優勝争いに加わることを目標に臨んだリーグ戦は、開幕2連勝と最高のスタートを切った。激しいプレスからのショートカウンターが冴えわたり、見事なロケットスタートとなった。
しかし、その後決定力不足から接戦を落とし続けると、徐々にチームの歯車が狂っていく。選手間のコンディションの差も影響し、開幕直後のような戦いができないまま連敗を重ねた。最終節でようやく連敗を止め最下位を脱出。最終成績は3勝11敗、勝ち点9で7位だった。本来なら2部降格となる順位だったが、2部の2位以内に昇格条件を満たさないチームが入ったため、リーグ規定により1部残留となった。
カップ戦では全社県大会で3連覇の偉業を達成したが、全国出場にはまたしても届かなかった。県選手権も大学生相手にまさかの初戦敗退となった。


2017

4年間監督を務めた須澤知史監督が退任。空位となった監督を、奥田真央GMを中心にスタッフ陣でチームを指揮する体制となった。1部残留を続ける中で顕在化してきた課題を解決し、低迷した前年からの立て直しを図るシーズンとなった。
選手が大幅に入れ替わり、大きく若返ったチームは、試合の中で素晴らしいパフォーマンスを見せ主導権を握る場面もあり、可能性を感じさせる戦いはできていた。若さゆえの経験不足に、前年同様に選手間のコンディションの差もあり、安定して力を発揮することが出来ず負の連鎖を断ち切ることはできなかった。結局、最終節を残して最下位での2部降格が確定。1勝2分11敗、勝ち点5の8位に終わった。
カップ戦も4連覇を狙った全社県大会決勝で敗れ連覇を逃すなど、大きな結果を残すことができなかった。


 

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